平素より格別のお引き立てを賜り暑く御礼申し上げます。
誠に勝手ながら、下記の期間を下記休暇とさせて頂きます。
皆様にはご不便をおかけ致しますが、何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。
夏季休暇期間
2023年8月11日(金)〜16日(水)
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今回のブログでは私たち日本人に身近な畳についてお話しします。
畳と一口にいっても種類や敷き方などにはさまざまな違いがあります。
昔から使用されてきた畳ですが、最近では和紙でできた畳を使われる方も増えています。
それぞれの畳の特徴などをご紹介し、理解を深めていただけたらと思います。
目次
中世・近世では、居室の床は板敷きが標準であり、将軍や大名は、置畳といって広い部屋の一部に寝具や座具として畳を置いて使用していました。室町時代に書院造りが完成されてからは、小さな部屋から室内全面に畳を敷き詰めるようになり、置畳と区別して敷畳と呼ばれるようになりました。
畳を1室に敷き詰める場合の社会的な慣習を畳敷様(たたみじきよう)といいます。
婚礼などの祝い事では祝儀敷とし、逆に葬儀などの不祝儀の際には不祝儀敷とされます。畳を敷き替える風習は江戸時代頃から始まったといわれ、畳職人の間では、畳の敷き方に対して枕敷、回し敷、四居敷、縁敷などの呼び分けがあります。
畳の台となるもので、材料によって藁のみを使用する藁床、藁の間にポリスチレンフォ ームなどを挟んだサンドイッチ畳床、藁をまったく使わない建材畳床の3種類があり、サンドイッチ畳床と建材床を化学床と呼ぶこともあります。
藁床は、よく乾燥させた稲藁を植物油に浸した麻糸で締めながら縫い刺したもので、感触がよく丈夫で復元力がある点が化学床と比べて優れています。藁は縦横に積み重ねて糸で締められますが、この藁を3層に重ねたものを三段配、5層のものを五段配といい、 畳床の品質は重量があるほど、糸締めの縫目距離が短いほど上等品とされています。
一方、ポリスチレンフォームだけで構成されたものや、インシュレーションボードでポリスチレンフォームを挟み込んだ建材畳床は 断熱性に優れ、水を吸わず軽くて施工しやすいなどの長所をもちます。また、ポリスチレンフォームの上下を藁で挟んだものは、 藁床の味わいや吸放湿性があり、軽くダニの発生の心配のない畳床で、最も普及しています。
畳表は畳の表層に張る乾燥したい草を緯糸にし、織り上げるものですが、このい草の種類や品質、織目(数)によって畳表の質が 決まります。
材料となるい草はイグサ科の多年生植物で、熊本県・福岡県・高知県・岡山県などで栽培されています。真夏に刈り取り、染土と呼ばれる泥のなかに漬けて染め、乾燥させた後に選別したものを使用します。この泥染めの工程が畳独特の色合いと香りを生み出します。
現在使用されている畳は大きく分けて二種類になります。
それぞれの特徴をご紹介します。
日本で昔から使われてきた天然素材の畳です。
畳は、畳床に畳表を被せて縁を付け、 床一面に敷き詰める建築材料で、主に藺草(いぐさ)・藁布などを用いてつくられます。高温多湿の日本の風土に最も適した床材の1つとして、今日まで広く使用されています。 畳床の藁も畳表のい草も中空のストローのような構造であるため、弾力性・断熱性・保温性に優れ、 適度に水分を吸収して乾燥時に吐き出す、湿度調整の機能も併せもっています。
また、耐久年数は4、50年と、新建材の倍近くです。
このように優れた機能を持つ天然素材の畳ですが、天然の藁床を使用する際は虫の心配があります。
そのほか、藁を作る農家さんが減っており価格が上がっていることもあり、天然の藁床を使用する機会があまりない現状があります。
DAIKENの和紙畳、『健やかおもて』をご紹介します。
和紙畳表は、イ草に近い手触りや質感を再現しつつ、高い機能性を付与した工業生産の畳おもてです。
カビの発生やダニの増殖を抑え、快適さを長くキープ。畳の醍醐味を存分に味わえる健やか仕様の本格派です。
DAIKENの畳おもては機械すき和紙をこよりにして、糸をつむぐように肌ざわりのやさしさを実現。しかも、こよりを樹脂加工することで撥水性や強さもあります。
畳は長手(長さ方向)の縁に畳縁の付く縁付畳と付かない縁無畳があります。また、 片側のみ縁のある片縁畳もあり、主に、地板を狭くつくった床脇に差し込む際に用いられます。 縁無畳は坊主畳ともいわれ、柔道場や農家の作業場では以前から使われてきましたが、最近では、空間を広く見せるために使用することも増えています。
畳表の長手(長さ方向)の縁を、畳に固定する目的で付けられる布製の縁を畳縁といいます。
畳縁は大きく無地縁と柄縁に分けられ、柄縁には格式の高い紋縁も含まれます。 建物や部屋の格式、用途によって使用上の約束事がありますが、一般住宅の座敷では柄縁か無地縁、茶室には無地の紺縁、床の間の縁は紋縁(高麗縁)とします。
縁無畳を使用した和室
小上がりの畳スペース
布団で寝る寝室
畳には床材としての様々な良さがあります。程よい硬さとクッション性を兼ね備えているため非常に心地よく過ごすことが出来ます。そして何より独特の風合いが魅力的です。
昔から使用されてきた天然素材のい草を使用した畳、最近ではダイキンさんの健やかくんなど和紙でできた畳を使われる方も増えています。畳は、客間にしたり、食事をしたり、横になってくつろいだりもできる汎用性の高さがあります。そんな畳をお家に取り入れてみるのはいかがでしょうか。
参考文献:「和風デザイン図鑑」
参考文献:DAIKENホームページ https://www.daiken.jp/buildingmaterials/tatami/
『木』のお家と言っても、どんな木があって、どんな特徴があるかご存知ですか?
私は、今まで全く知りませんでした。
意外と知らないことも多く、でも知ることで家を建てるときに、その場所場所にあった『木』を選ぶことができますし、一つ一つ家に使われた木々に愛着を持つことができると思います。
経年が魅力の『木』を楽しむためにも、ぜひ、これを見て一つずつ知識が広げていき、見た目や雰囲気だけでじゃなく、自分好みの木材が選べるようになってもらえたらといいなと思います。
今回は、神聖木として高貴な『檜(ヒノキ)』についてお話しします。
目次
檜(ヒノキ)は、高さが30〜40メートル、直径は1メートルほどの常緑高木の針葉樹で、
材の色は、淡紅白色。肌ざわりはなめらかで、独特のつやと香りがあります。
強度にすぐれ、狂いが少なく、耐久性はトップクラスで、軽く柔らかいので活用範囲が広く、肌めが非常に緻密で、均質な材料が必要な用途に適しています。
心材は特に耐朽性が高く湿気にも強いです。
そのため、古代より建築材料として重用されてきました。
現在の住宅でも、柱・土台・梁・桁・床・母屋・鴨居・敷居などさまざまな部分に使用されています。
また、建具、家具、風呂桶、工芸品、彫刻などにも使用されます。
スギに比べると、やや乾燥した土地を好みます。ただし、スギよりは生長が遅く、手入れも多く必要とされています。
木曽(長野県)をはじめ、東濃(岐阜県)、吉野(奈良県)、尾鷲(三重県)、紀州(和歌山県)、土佐(高知県)、美作(岡山県)、静岡県などが産地として知られています。
【樹名】 |
ヒノキ |
【科名】 |
ヒノキ科ヒノキ属 |
【心材の色】 |
帯黄白淡褐色 |
【辺材の色】 |
淡黄白 |
【産地】 |
福島県東南部以南の本州、四国および九州 |
【加工性】 |
木質が軽軟なため容易 |
【主要用途】 | 構造材、造作材、家具材、建具材 |
【有名箇所】 | 長野県木曾・岐阜県裏木曾・木曾谷 |
【生えている場所】 |
山の中腹から尾根筋の斜面 |
太古の昔、日本人は森に住み、森から食料を直接得たり、木々の貯えた豊かな水は「森のダム」として人々の生活を潤し、稲作農業を可能にしました。そして、四季折々の自然の美しさや厳しさ、森林や大地からの恵みの大きさが、日本人の自然に対する祈りの心を育んできました。
このような中で、わが国は独自の林業及び木の文化を発達させてきました。
そこで、日本人にとって無くてはならない木材として使われるようになったのはいつ頃の話でしょう。
遺跡から出土する木材の樹種を全国的に調べてみると、
ヒノキの木材は、スギの丸木船が出土したことで知られている福井県三方郡三方町の鳥浜貝塚遺跡が最も古いそうです。
この遺跡では、縄文時代の草創期から前期にかけて(約1万年前〜6千年前)の地層から出土した自然木(昔の人々が利用した痕跡のない木材)約3200点のうち20点がヒノキでした。
この遺跡で人々が利用した木材の中で最も古いものは約1万年前の杭でわずか2点ですが、約6千年前の縄文時代前期になるとたくさんの杭、板材、そしてスプーン状の木器、また彫刻のある細長い板などがあり、生活に密着したヒノキ材の利用が既に見てとれるようになっていきました。
しかし、ヒノキ材の木材利用は縄文時代を通して他にはあまりありません。ヒノキ材が他の木材より特に利用されるようになるのは、弥生時代になってからでした。
弥生時代の中期になると木材資料はやや増えていき、後期ともなるとどの遺跡からもヒノキ材が出土するようになり、板材などに加え、高杯・木棺・鳥形などさまざまに利用されたことがわかります。更に時代が下って古墳時代、そして歴史時代にはいるとこれは更に顕著になり、奈良・平安時代ともなるとヒノキ一辺倒ともいえる木の文化が開花します。
古墳時代を経て大和朝廷が成立し、近畿地方にその王都を造営するようになりますが、中国からは仏教のみならず政治・行政のシステムと文化をも取り入れました。中国をまねた王都造営にあたってはこれまでにない大きな建築物が数多く建てられ、そこには大量の木材が用いられ、その主要な部分がヒノキでした。古代の最大の都と言える平城京の建物の柱の樹種調査では、約6割がヒノキ、3割がコウヤマキでした。
この時期、ヒノキは柱材などの建 築材ばかりに使われたのではありませんでした。
箱もの・指物・家具など、曲物・折敷・ 桶など、木簡、それに斎串・人形・刀 形などの祭祀具などにはほとんどヒ ノキが使われていました。
また、戦国時代以降、木材消費が急激に増加する中、木曾の木材は昔から良質で、江戸城の築城や造船、土木用材等、様々なところで利用され、木曾はヒノキの産地として注目されてきました。そして、「木曾式伐木運材法」などの技術を発達させてきましたが、技術の発達とともに木材資源の枯渇の危機から、森林保護政策として「停止木制度(ちょうじぼくせいど)」を設け、ヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキの伐採を禁止しました。
停止木制度は、ヒノキの保護を目的とし、ヒノキに外観が似て、かつ利用価値の高い樹種も禁止木に選びました。禁止木を伐採した者への罰は、「木一本、首一つ」と呼ばれるほどで、厳罰に処されました。
森林保護制度によって保護された樹種は「木曾五木」と呼ばれ、現在は木曾谷の名産品となっています。
ヒノキの植林は各地で盛んに行われていますが、天然ヒノキの群生地は木曾谷以外にはほとんどありません。
大半のヒノキは植林材です。
天皇家の御料林と、伊勢神宮の関係者が社木の最大規模の管理組織で、これが木曾谷にヒノキが純林として残っている主因です。
日本人の天然ヒノキに対する愛着は深いものがありますが、どんなに厳しい森林管理をしても資源は枯渇する一方です。
木曾地区では、林野庁が伐採後の山に間髪を入れず植林をしているので、面積比率からみると木曾の山は天然林とはいえず、むしろ梢林地区になってきています。ヒ ノキはスギに比べて造林された若木でも需要があるので、ヒノキの植林がスギよりも多くおこなわれています。 その他の産地でも植林に力を入れていて、三重県の尾鷲地区、奈良県の吉野地区、静岡県の天竜地区が建築材の有名ブランド産地として知られています。
植林されたヒノキでも下枝打ちなどの管理を丹念にしながら育て、100年以上の長年月を経ると、表皮に近い 部分から急速に年輪幅が詰まり天然木のような木理を呈してきます。
古い神社やお寺に使われている柱などを調査したデータによれば、ヒノキ材は伐採されてから200年くらいまでは、圧縮・曲げなどの諸強度はやや上昇し、その後は緩やかに減衰し始めます。衝撃曲げ吸収エネルギーは伐採後300年までの間は30%ほど低下するものの、それ以降においてはほとんど変わらないという学術報告があります。
同じく寺社に多く使われているケヤキ材は、 伐採後300年辺りから急激にセルロ ースの崩壊と結晶化が始まり脆くなるので、ヒノキよりも耐久性が乏しいといわれています。ヒノキはあらゆる面から見て最高の構造材といえます。
天然ヒノキは仏像彫刻に多く使われ、国宝になっています。春慶塗の木地、櫛、木槌、道具の柄、梯子、額縁 などの小物の用途があります。ヒノキの枡は有名で、1升枡は江戸時代の計量器具の中でも一番多く使われていた道具です。
むかし、出雲の国(現在の島根県)に、
ひとつの体に頭が8つ、尾が8つある大蛇
ヤマタノオロチがあらわれました。
その大きさは8つの山と谷を渡るほどで、
背中はコケにおおわれ、
スギ、ヒノキ、クスノキの大木が茂っていました。
ヤマタノオロチは、
毎年あらわれては村の娘を襲っていきます。
それを知ったスサノオノミコトという神様は
「8つのおけに酒をいれて置いておきなさい」と村人に命じました。
そしてその夜、ヤマタノオロチがあらわれ、
酒をガブガブと飲み、酔っぱらって眠ったところを退治しました。
ヤマタノオロチを退治した後、スサノオノミコトは、
自分のひげをぬいて土に散らすと、なんとスギの木に変わりました。
さらに、まゆ毛はクスノキ、胸の毛はヒノキ、尻毛はマキに。
「スギとクスノキは舟、ヒノキは宮殿、マキは棺桶にしなさい。」と命じました。
とても面白い話だったのでご紹介しました。
「日本書紀」で描かれたこのお話は、土石流を大蛇のヤマタノオロチに見立てて、
植林や木の使い方を後世に伝えていきました。
今も昔もヒノキは高級建材として考えられていたようで、
実際に、日本ではヒノキは法隆寺や伊勢神宮をはじめとした神社仏閣の神聖木として使われてきました。
神聖性、美観性、耐久性の全てを兼揃えたヒノキは、多くのものに使われています。
ヒノキは木造住宅の中で構造材から内装材にまで幅広く用いられています。
「水に強い」という特性を活かし、フローリングの床材や檜風呂などに活用されることもあります。
丸晴工務店では、水に強いということだけでなく、50年60年、、、と末長く住い続けていただきたい。
その気持ちから、ヒノキ材で強度のある柱を、経年変化を楽しめる柱や床を使い続けています。
参考文献:「木材大辞典」「日本書紀」「木の文化」
参考文献:中部森林管理局 https://www.rinya.maff.go.jp/chubu/kiso/morigatari/kisogoboku.html
丸晴工務店でこの度、社員大工を募集します。
新卒採用
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木造住宅の施工・造作、現場監理、お客様対応など、家づくりの工程に関わる仕事です。
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メールアドレス: hiroxart@icloud.com
採用担当:濃沼
丸晴工務店の施工事例:https://www.marusei-j.co.jp/work-list/
小さな頃から絵を描くのが大好きで、手を動かして物を作ることが好きだった堀さん。
たまたま美大に建築科があることを知り、東京藝術大学美術学部建築科に通われました。
技術的なことや図面の書き方を学ばれましたが、それよりも建築がどうあるべきか、居心地の良い建築とはどういう物なのか?居心地の良いプロポーションの良い建築とは?など、そういったのを学ぶために、良い建築をたくさん見て自分で体験し、吸収して学んでこられたそうです。
新しい生活や人の生活はその時々でライフスタイルが変わるので、末永く使い成長していく、歴史を刻み、時を織りなすような住まいが重要であると説く、堀さんの現在は、大学施設や集合住宅を中心に建築をされています。
現在の大学施設を設計するにあたり、コンペに参加して行いますが、このコンペに参加するためには実績がないと参加ができません。それが堀さんはどうしても納得がいかないとおっしゃいます。若くして独立している設計士など実績がないものがコンペにすら参加できないのはおかしな話だと。
そんな思いを熱く語られ、堀さんの優しい人柄が垣間見れたような気がします。
優しい人柄は設計にも表れており、大東文化大学の設計は、学生たちの活動がファサードとなる空間、半屋外廊下にすることで学生たちの溜まり場となり、コミュニケーションの場が生まれます。またそうすることで空調負荷などなく環境に配慮した建物になっています。
福島県にある小高交流センターは、地元福島県産の杉材を使用した、帰ったら気軽に立ち寄れる、昔の町屋を継承しながら街に溶け込むような建築を目指して作られました。
美観を保つため、中央に柱を立てず寺社仏閣でも使われる持ち出しの構造を現代風にアレンジされ開放的な空間を作られました。
建築家の役割として、
人と人、人と環境を繋げること。人の生活そのものを再現していくこと。
100年残る建築を作っていくこと。
そのためにも、過去の人たちのいい作品や昔の人たちの知恵を吸収し議論して、組み立て直していくのが重要である。
閉じていく世界になってきているけれど、他者と関わり合い、自然と共存でき、街に開かれた住まいを作っていく必要があるとお話しいただきました。
プロジェクトを交えながら具体的にお話しいただいた内容は、自然光の取り入れ方や自然通風の入れ方など、そういった図面を見ながらのお話しは塾生の特権なので、今日はここまで。
丸晴工務店の最新ブログ:https://www.marusei-j.co.jp/奈良県の吉野杉ってどんな特徴があるの?製材所/
丸晴工務店の最新動画:https://youtu.be/v3YUaX1HaUk
本回は、日本の建物に多く使われている杉の中でも『吉野杉』について注目しました。
吉野杉の特徴や、実際に吉野の製材所へ訪問し、学んだことをご紹介したいと思います。
目次
吉野杉は奈良県吉野地方に古くから植林された民有林材です。
樹脂分 がほどよく含まれ、手垢がつきにくいために、造作材としても喜ばれます。柱や造作に用いられる、赤杉とよばれる赤味の濃いものは、経年変化によっても秋目がよくのこり、高く評価されています。
奈良や京都の都が栄えた時代から利用されてきた吉野の木。当初は天然木を伐っていたものの、築城などの木材需要により植林も盛んに行われるようになりました。吉野林業は400年近い長い歴史があります。
吉野で林業が盛んに行われてきた背景のひとつに自然環境があります。吉野の川上や黒滝、 東吉野辺りの山は保水と透湿性に優れているほほか、植物の育成に必要な栄養が多く含まれる土壌です。年間雨量が多く温暖な気候条件も大きな恵みとなっています。
吉野林業には「山守制度」という独自の制度があります。これは山を所有する者(山主)と山を管理する者(山守)を分ける制度。一般的な林業では日々手をかけても木が育つまでお金が入りませんが、この制度では山主に代わり山守が現場で木を育てる役割を果たします。 山主から毎年世話代をもらうことができる上、木の購入権も優先的に認められるとあって山守 は一生懸命に山を育てるのだといいます。山主と山守の厚い信頼関係により、丁寧に作り上げられた山は吉野杉や吉野桧の付加価値とされてきたのです。
吉野林業では、密植という方法で良質な木を育ててきました。 一般的な林業では1町歩(約1万m2)あたり約3,000本植えるのが植林の目安ですが、吉野林業ではなんと1町歩8,000本から10,000本もの木が植えられます。密集して木を植えることで木の成長を遅らせ、目の詰まった木を育てるのです。 年輪幅が狭く強度のある木になる上、木目も美しいため木の質としては申し分ありませんが、太い木に育つには年月が長くかかるということになります。
ここからは、先日訪問させていただいた、阪口製材所さんについてお話しします。
吉野町で70年の歴史を持つ製材業者「阪口製材所」を訪ねました。
1本の木を余すことなく利用しながら、住宅一棟分全ての木材を納めるというもの。「木の太い部分、細い部分それぞれに利用方法があり、その全てをうまく使えば家が建ち、木の価値を高められる」とい仰っていました。人の都合で「いいとこ取り」をしていては山は生きられない。木を余さず使い切り無駄を出さないことは、コストダウンにもつながります。
山から切り出され水分を含んだ材木の強度を保ちながら、割れや反り、シロアリやカビを防ぐためには乾燥が必要です。乾燥炉に2~ 3週間置く人工乾燥に対して、化石燃料を使わない自然乾燥は最低でも1年。手間やコストはかかるものの、 本来持っている色艶や粘り 強さがあり、何より住まう人に優しい木になるそうです。
「一棟丸ごと提供」と「天然乾燥」のため、常時100棟分以上の木材を保有しています。これは、管理の手間や場所など負担も大きいですが、一定の乾燥品質を保った木材をいつでも届けられることがニーズに応えられる方法だとお話しされていました。「良いものをすぐに提供することが自分たちの義務」だと、阪口さんは話します。
実際に木材を見せていただきました。ずらりと積み上げられた杉材は圧巻です。
丸太の状態で積んであります。皮がそのままの状態です。
木材を外に置いてあるのをみて、雨にあたってしまうと木材は乾燥しないではないか?と疑問に思い質問ました。それは全く問題ないそうです。雨に当たっても外に置いておけば、水分は抜けていきます。雨に打たせることで、色が平均化するという良いことがあるそうです。
長い乾燥によって割れが入るのを防ぐため新聞紙が貼られていました。木口割れの被害を最小限に留める為に、鎹(かすがい)を打ち込んだり、割れ止めののり(木工用ボンドを水で薄めて使用したりする)を木口周りと表面の板目部分に塗るなどします。
阪口さんのお話で印象に残ったのが木の本来の性質を伝えることも大切にしているということです。木は割れる、曲がる、狂う、腐る。そんな木の短所と言われる性質をきちんと説明したうえで、同時に木の良さも感じてもらう。節を見せたくない部分では綺麗な材を使い、節があっても気にならないような家の見えない部分には節のある部分をを使用して材を余らせません。
建材としての強度や機能性といった面だけでなく、 奈良県産材はその見た目の美しさからも称賛されています。このような良質な木材は大変な手間暇をかけて育てられ、私たちの手元に届き、木の温もりを感じられる住宅に生まれ変わっているんですね。
参考文献:奈良の木マーケティング協議会「奈良の木が住まいになるまで」
今回お世話になった「阪口製材所」さんのホームページはこちら
そのほかの木についてのブログはこちら
黒檀
前回、瓦屋根について書きましたが、屋根には他にも種類があり、耐久性とコストを考えて金属屋根にする方も増えてきております。
昔から使用されてきた趣きある銅板の屋根。それに変わるチタン屋根。最近では、ガルバニウム鋼板という金属の合わさった材料を使われています。
どれがいいかと比べるのもいいのですが、今回はどんなものなのか特徴をお伝えし、ご自身に合った屋根選びをして頂ければ幸いです。
目次
銅の歴史は同時に人類の歴史といわれています。
古代の化学技術史による化学の起源は、
第一に「火を燃やす」ということ。
第二に「調理術」で熱もしくは酵素の作用で蛋白質と炭水化物を分解したこと。
第三は「製陶術」の発見ということで、粘土の焼き方を知ったことです。
三つの発見は黎明期(時代の始まり)における人類によってもたらされたものです。
金属については,浅い川床に輝く特殊な石に興味をもち、その石を叩いて薄い板にしたり、ピンの形をつくったりしました。
さらに地表に顔を出す奇効なかたちをした自然銅塊を発見し、一種の研究的思考かが始まり、こうした行動が銅という金属を発見する起源となりました。
これらの自然銅塊は光輝性緑色の「石」 である「くじゃく石(マラカイト)」であり、また、「藍銅鉱(アズライト)」でした。
それでは人類が鉱石を製錬すると銅がつくり出せることに気付いたのはいつ頃のことでしょうか。
これには各種の学説があります。
一説によれば、最古の銅器類は「くじゃく石」を製錬してつくられたといわれています。
人類最初の文明はバビロニアのエラム地方で、この地域で製錬術が始まりさらにチグリス・ユーフラテス河流域で本格的な冶金学が 起こったと推定されています。
日本に青銅器文化が始まったのは弥生時代の初め(紀元前300年頃)で、終末は古墳時代の前期(紀元400年)でこの間約700年の間に、各種の銅器、青銅器かつくられましたが、日本の青銅器文化は、大陸からもってこられたことは確かとされています。
特に銅鉾(どうほこ)、剣、文などが西日本を中心に数多く発掘されていることからもその事実が読み取れます。
708年頃武蔵国秩父郡から初めて自然銅か発見され、元明天皇に献上され年号も「和銅」と改められました。
以後銅材で貨幣を鋳造する鋳造司が置かれたことは歴史的に有名で、時の通貨を和同開称と称されました。
その後関東では慶長十五年(1610年)に足尾銅山が発見され、さらに愛媛で元禄三年(1690年)に切上長兵衛という人により別子銅山か発見され、当時日本では最も最高の銅山といわれました。
こうした国産の銅資源による銅か建造物に利用されるようになったのは,加工技術の問題から鋳造による社寺仏閣の仏像、仏具、飾り金物、また塔、梵鐘などの青銅器に始まります。
特に大和地方は平城京による都が栄えたこともあり、興福寺の梵鐘(727年)、薬師寺 東塔(730年)、法隆寺夢殿(739年)、続いて747年には東大寺の大仏の鋳造が開始されました。
屋根に銅板が初めて使われたのは、天平神護元年(765年)に奈良の西大寺創建に際し、銅塊を瓦状に鍛金加工し用いられたことが『七大寺巡礼私記』 に記載されています。
そもそもこの西大寺は称徳天皇が奈良の東大寺に対する寺として建立されました。
西大寺は薬師金堂と弥勒金堂の二つの金堂から成り、唐の建築様式を積極的にとり入れました。
このように、わが国における建造物への銅の利用は杜寺 仏閣から始まりました。
当初、屋根用に用いられた銅は精錬され、精銅としてさらに叩いて薄く加工し使用されました。
この伸板に加工される原料は、関東では慶長 十四年に足尾銅山が発見され、関西では元禄三年に別子銅山がそれぞれ採鉱を始め精銅を生産しました。しかし 当時の採鉱から精練に至る過程は大変な作業の繰り返しで困難をきわめました。
銅は非常に強く、錆びにくいため、銅屋根は非常に耐久性があります。一般的に、銅屋根は50年以上持続することができます。
銅は比重が軽いため、銅屋根は軽量で、建物の荷重を軽減することができます。
銅屋根は美しい光沢を持っており、建物の外観を向上させることができます。また、時間が経つにつれて、銅は自然に酸化し、独特の色合いを生み出すため、美しさが増します。
銅は非常に耐火性が高く、火災のリスクを減らすことができます。
耐腐食性: 銅は耐久性があり、錆びにくいため、腐食に対する耐性があります。また、銅は塩水や酸性の環境にも耐えることができます。
経済性
ガルバニウム鋼板の3〜4倍
大正十一年九月関東大震災が発生し、東京周辺は 焦土と化しました。
当時いち早く震災の復興資材として 利用されたのが銅板で、店舗や住宅の屋根・壁面など化粧張り建築が競って利用されました。この時代の住宅に使用される銅板葺き屋根の一坪 当たりの重量は11キロ余りであったのに対、土瓦 葺き屋根の重量は225キロ内外で、 大変屋根の重い土瓦の住宅が多区ありました。
土瓦以外の屋根材としては 亜鉛鉄板とスレ ー トがあったのみで、特に関東大震 災では火災による焼失が多く、このため、復興本建築には防火性,耐久性に優れた銅板が多く用いられました。関東大晨災の復興になぜこれだけ多くの銅板が使用されたかについては二つの理由がありました。
一つは 、東京が地震と火災で全滅し機能が停止し、建築材料 の入手が困難な状況の中に、銅板だけは資材として 充分確保 され、しかも防火材として非常時に対してメ ー カ ー側の対応が早く積極的に活動したこと。
二つめは、当時内外の経済が不況で銅価が下落し、一般庶民でも充分使用できる価格でした。
こうして関東大震災の復興に役立った当時の銅壁建築は、 現在も東京の中央区, 台東区, 墨田区などに数多く現存しています。因に、 大正九年十二月一日に施行された市街地建 築法の「第八 防火地区」の項において金属板のことが記載され、銅板は防火材として法規で認められました。
チタンが使われるようになった経緯にはこんなところからだそうです。
銅は緑青になれば皮膜ができ、侵食されずに40年から50年と保っていました。
しかし、ある住宅で瓦葺き屋根の谷板に厚さ0.4mmの銅板を使ったところ、12年で穴が空いてしまったそうです。
他でも似たような現象が起こったので調べたところ、いずれも起り(むくり)屋根だったので銅の伸び縮みによってクセがつき、同じ箇所ばかり屈折して金属疲労が起こってしまっていたそうです。
また、もう一つの腐食の原因として、瓦に問題がありました。
それは、瓦を薪で焼いていた時代は良かったのですが、重油やガスで焼くようになるとそれらで焼いた瓦には、銅を腐食する化学物質が残っていたそうです。その化学物質と酸性雨が一緒になり銅を腐食させていたそうです。
そうして、銅からチタンが使われるようになっていったそうです。
瓦屋根の約1/13の軽さで、地震の揺れを軽減。
屋根部が重いと地震の際に建物上部の「横揺れの振り幅」が大きくなります。金属屋根で最軽量のチタン屋根は「横揺れの振り幅」を最小限に抑えられます。
チタンは非常に軽量でありながら、耐久性が非常に高い素材です。そのため、チタン屋根は耐久性が高く、長期間の使用にも耐えることができます。
金属屋根は真夏の猛暑時など表面温度が80℃を超えることがあります。その高熱により屋根材がミリ単位で膨張します。
そのため屋根材の固定箇所を傷めたり、屋根の歪みを引き起こすことがあります。
チタンは熱による伸縮性が小さく、銅板と比較して熱による伸び縮みは約1/2に抑えられます。
そのため、日射熱による屋根の歪みや、屋根の固定箇所の負担を半永久的に軽減いたします。
チタンは腐食に強く、錆びにくい素材であるため、屋根の表面に付着する雨水や空気中の化学物質による腐食にも強いです。
チタン材の表面は安定した酸化皮膜に覆われているため、屋根に使われる金属素材の中では比類なき耐食性能を誇ります。
通常の建材使用環境で腐食する可能性は皆無です。
また、見た目の色彩に関しても塗装ではなくチタン材の酸化皮膜そのものの素地色のため紫外線や海塩粒子による劣化の心配はありません。
光沢のある美しい表面を持ち、豊富な色彩があります。そのため、建物の外観にも大変美しく、高級感を演出することができます。
経済性
ガルバニウム鋼板の4.5倍ほど
ガルバリウムは、めっき金属として純亜鉛ではなく、アルミニウム +亜鉛+珪素 の合金をいいます。
アルミニウムはめっき層表面に強固な不動態皮膜を形成して、めっき層を保護する働きを持っています。
亜鉛は、犠牲防食と言って、水中などの腐食環境下において鉄よりも先に亜鉛が溶け出すことで、原板である鉄の腐食を防止します。
そのため亜鉛が腐食し、腐食生成物がめっき層の腐食進行を抑制し、亜鉛が腐食して空いた穴の部分をアルミニウムが保護するため、全体として高い防食性を発揮します。
そのガルバニウムを施した鉄(鋼板)の建材をガルバニウム鋼板と言います。
詳しく書いた記事はこちらhttps://www.marusei-j.co.jp/外壁材のガルバニウム鋼板について/
いかがでしたでしょうか?
金属屋根と言ってもたくさんの種類があり、今回は主な金属でしたがそれぞれの成り立ちや特徴など理解していただけたのではないでしょうか?
最近ガルバニウム鋼板が選ばれている理由としてもやはり、建材などが値上がりし経済面を考えて、でも耐震性や耐久性を落としたくない。そういった希望もあって総合的に選ばれている方が多いということなのかもしれませんね。
これらを参考にご自分に合った屋根材が見つかるといいですね。
そのほかの屋根材
瓦屋根について https://www.marusei-j.co.jp/屋根材の「瓦(かわら)」ってどんな特徴がある/
参考文献:建築資料研究社「和風建築シリーズ”屋根”」
お家づくりの打ち合わせが進んでくると、屋根はどんなふうにしましょうか?
という話になってきますよね。
色々見てみるけど、やっぱり何がいいのわからないなぁ、、、という方も多いのではないでしょうか?
ここでは、昔からある屋根材の 瓦の特徴やメリットデメリットをお伝えし、理解を深めていただけたらと思います。
目次
日本各地の伝統的民家は屋根のかたちに特徴がよくあらわれています。
屋根をみればどの地域のものかおおよその見当がつき、茅葺き屋根は,北日本のものは屋根曲線がキツく鋭い。これに対して南日本のものは丸みを帯びていて柔らかさを感じさせます。このような違いは、屋根の葺き方や技術、用いる材料の違いなどとともに、それぞれの地域の風土と文化を反映しています。
かつては屋根材料としての茅は全国のどこにでもあったため、茅葺きの家が圧倒的に多くありました。
ちなみに、「カヤ」という学名の植物はなく、アシ、スギ、カリヤス、ススキなどを屋根葺き材料としたときに、これらの植物はすべて茅になります。
農家は茅葺きが普通でしたが、18世紀中頃になると一部の農村の家に瓦茸きがあらわれます。
三重県上野市の町井家は延享元年(1744年)の桟瓦葺き、庇は本瓦葺きの建築であり、農家としてはもっとも早い瓦葺きの例でした。
瓦は、古代から建築材料として使用されてきました。最初期の瓦は、地元の素材である粘土や泥を形成して乾燥させたものでした。
初めて瓦が作られた説には、いくつかの諸説があります。
中国の説では、約4000年前に瓦を作ったという記事が中国の古文書『古史考』にあるということから、これを起源とする説。
またメソポタミア説では、紀元前3000年頃にはエジプトやメソポタミアなどの古代文明で瓦が使用されていたとされています。古代エジプトでは、ナイル川の粘土を用いて、屋根や壁などに瓦を使用し、古代メソポタミアでも同様に、日干し煉瓦や粘土瓦を使用していたとされています。
その後、瓦の使用は世界中に広がり、瓦の形状や種類も多様化していきました。
日本で初めて建物の屋根に瓦が葺かれるようになったのは、 今から約1400年前 の昔、 飛鳥の飛鳥寺(法興寺)造営時に朝鮮の百済から寺院建築の技術と共に瓦 作りの技術が伝えられたことによるとされています。
『日本書紀』によれば崇峻元(588)年に4人 の「瓦博士」が渡来したと記されており、後に飛鳥寺は平城遷都とともに、元興寺(がんごうじ)として奈良の地に移されました。
桃山時代になると、戦国の武将達によって火に強い 瓦が城に使われるようになりました。
安土城の瓦は明の製瓦法(中国明代に開発された陶器製造技術)を伝えたもので、この技術の特徴は、瓦を製造するために、木型と粘土との間に雲母粉を使い、瓦を燻して焼く(燻し瓦)方法で、型を使用して一定の形状に成形するものでした。この製法は、瓦の形状やサイズを一定に保ち、効率的な生産を可能にしました。
この明の製瓦法は、中国の建築や都市化の発展に大きな役割を果たし、現代でも中国や東南アジアなどの地域で使用されています。
江戸時代において江戸の武家屋敷は瓦葺きであった 一方、一般庶民の家は「禁行令」のもと板葺きや昔ながらの草葺きであった上に町家が建て込んでいたために火災に見舞われました。
それでも幕府は民家は当然のこと、国持大名に土蔵以外の建物の瓦葺きを禁止していました。
しかし、この「禁行令」も60年程で廃止され城郭や寺、武家屋敷に限られていた瓦屋根は民家にも使われるようになっていきました。
現代でも、瓦は建築材料として広く使用されています。しかし、近年では、環境に配慮した建材の需要が高まる中、瓦に代わる材料が研究され、開発されています。
日本の瓦にはいくつかの形で出来てますが、代表的なものには以下のようなものがあります。
伝統的な日本の陶器瓦で、赤や茶色などの色があります。
平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて並べる葺き方を本瓦葺き、又は本葺きとも呼び、その材料が本瓦となります。
裏瓦は屋根の裏側に使われる瓦のことを指します。裏瓦は、主に雨漏りや風雨による飛散物から屋根を守るために使われます。また、裏瓦には、屋根の通気性を確保するための役割もあります。
屋根の棟(むね)に使用する瓦で、形状が特徴的です。
以上のように、日本の瓦には様々な形があり、それぞれの役割があります。
また、製造方法や材料によっても瓦の種類が変わります。
炭火で表面を燻して作られるため、独特な風合いがあります。黒瓦、銀色瓦とも呼ばれ、よく焼成されたものはいぶし銀のような色と独特なつやをもち、その風合いは時間が経つにつれて増していきます。
また、燻すことで表面に膜ができ、風雨や紫外線から保護され、膜ができることで燃え広がりにくくなり、防火性が高くなります。そして、自然素材で作られているため、環境に優しく、廃棄物も出ません。耐久性があり長期間使用を期待することができます。
土や粘土を原料とした天然素材を原料として製造された瓦で、軽くて強度があります。
釉薬を塗ることで瓦にツヤを与えることができるだけでなく、好みの色に仕上げることができ、種類が多いことも釉薬瓦の特徴です。また、優れた断熱性を持ち、表面が滑らかで密度が高く、雨や湿気を防ぐ防水性高いため、屋根や壁面に使用されます。
セメントを原料とした瓦で、比較的安価であり、耐久性が高いため、住宅やビルの屋根や壁面に使用されます。
他の瓦とは違い、焼かずに仕上げるため、製造中の縮みがほとんどなく、ほぼすべての瓦が無駄なく使えるというメリットがあります。
粘板岩を原料とした瓦で、防水性が高く、美しい光沢があります。主に屋根瓦として使用されます。
粘土で瓦の形を作り、そのまま焼いたものを「素焼き瓦」と呼びます。
赤みが強いため「赤瓦」と表現されることも多いです。独特の赤みから洋風建築と相性が良く、南欧風の建物に合わせてテラコッタ瓦やスパニッシュ瓦と呼ばれることもあります。S字形をした瓦で、屋根の表面積が少なく、美しい外観が特徴です。
瓦は、その土地土地で取れる素材を使い、その土地ならではの瓦を生産してきました。
その中でも日本三代瓦として、有名な産地があります。
三州瓦は、愛知県西三河地方で主に生産される瓦の総称で、この地方の旧国名「三州」に由来します。
この地域では、瓦に適した良質な粘土が大量に採れ、又配合粘土、釉薬、窯業機械などの関連産業が集積し、瓦産業が発達してきました。
形状・色彩の多様化、使用する場所に応じた細分化、手造り技術の蓄積など、日本の屋根の伝統文化を継承しながら、機能的進化し続けており、現在では全国の粘土瓦生産量の約70%を占める最大産地となっています。
約1150度の高温で焼き締められた三州瓦は耐久性に優れ、焼き物ならではの質感が生み出す、美しさ・高級感などデザイン性も高く評価されています。(三州瓦工業協同組合)
「淡路瓦」は、兵庫県淡路島で生産される400年の歴史を持つ伝統的な屋根瓦のことです。
淡路瓦は、「なめ土」と呼ばれる粒子の細かい粘土がいぶし瓦に適しており、いぶし瓦の生産量は全国一を誇ります。
淡路瓦の焼成温度は1000℃前後と三大瓦のなかでは最も低いですが、高温で焼かれた瓦なので防火性も十分あります。(淡路瓦工業組合)
淡路瓦のできるまで
島根県西部の石見地域で生産される石州瓦。日本第2位の生産力を誇る地場の伝統産業です。
山間部は雪深く、日本海に面した町は日本海の荒波にさらされ、しばしば台風の通り道になる石見地方。
東西南北で様々な環境変化がある土地は珍しく、この環境の中で作られた石州瓦は様々な頑丈さをもつように400年前から作られ続けています。
石見地方の町並みを見ると、赤茶色の屋根がたくさんあることに気がつきます。石州瓦の特徴、釉薬瓦の町並みです。(江津市 地場産業振興センター)
これまで述べた特徴をふまえると、
1000℃を超える高温で焼かれた瓦は、熱に強く万が一の火にも耐火性能を発揮してくれるでしょう。
また、雨の多い日本では防水性が最も重要ですが、瓦屋根は裏に回った水が表に排出される仕組みになっており、防水性に優れており、裏瓦で屋根の通気性を確保してくれるので室内の結露防止にもつながります。
そして、今最も騒がれている断熱性ですが、瓦は直射日光を反射し、熱を吸収しないので室内への外気の影響が少ないと言えます。
そして何よりも、美しい外観です。
これは、最近建てたお家の外観で、一文字瓦と言って軒先をきれいに揃えたディールの瓦葺きになります。
日本人ならば、これを見て美しいと思わない人はいないのではないでしょうか?
デメリットとしては、重量があるため、強度の低い建物には設置できない場合や施工に時間がかかるため工期が長くなる場合があります。
そして、イニシャルコストは他の屋根材より高くなることが多いですが、耐久性が50年以上あることを考えると、ランニングコストやメンテナンスコストとの比較で安価になる場合も考えられます。
メリットデメリットを知った上で、他の屋根材と比較して考えてみるのもいいですね。
参考文献:建築資料研究社「和風建築シリーズ”屋根”」
その他の屋根材、ガルバニウム鋼板はこちらのブログ
https://www.marusei-j.co.jp/外壁材のガルバニウム鋼板について/
丸晴の職人さんの動画はこちら
蟻継ぎと言われる継手は、なぜそう言われているかご存知ですか?
その名の通り台形の形が蟻の顔の形だからという説と、蟻の牙の形と言われる説。があるようです。また、鎌継ぎは蛇の鎌首が由来とされ、溝を切るために使う畦挽鋸(あぜひきのこ)は、田んぼの畔道が由来なんだそうです。
このように由来が生き物などに例えられているのには、わけがあって、昔は10歳〜13歳で弟子入りしていた子供にもわかりやすく覚えやすいようにと身近なものに例えられていました。
目次
日本の木造建築で用いられる伝統的な切組み継ぎはその効用によってに分類されています。
〜引張りと捩れ(ねじれ)の力に耐えるもの〜
https://www.marusei-j.co.jp/継手の中で一番引っ張り耐力の高い『追っ掛け大/
他にも金輪継(かなわつぎ)鶍継(いすかつぎ)などがあります。
引張りに強い継手のひとつで、建築での本格的な使用は中世からと言われています。
引張強度は「鎌」や「追っかけ大栓」には及びませんが、接ぐ長さが短くてすみ、仕口では凹形に加工される通し材の繊維を欠く割合が比較的少ないため、仕口に多く用いられています。
昔は、大工さんが手で刻み加工していましたが、加工精度の均一化、及び作業の合理化が図られ、機械で加工するプレカットが主流になりました。
丸晴工務店では、この「蟻継ぎ」も手刻みしています。(手刻み動画はこちら→https://youtu.be/bPtxsZD1L1M)
板の裏面に吸い付き桟を取り付ける手法です。
天板の反りを止める効果と共に、テーブルなどの場合、脚への接合部となります。
天板の収縮にも対応が利く継手。
板はぎや、甲板と幕板接合などに用いられます。女木側に蟻ほぞが入る四角の穴をあけ、蟻ほぞにこれを挿し込んで蟻溝に滑り込ませて引っ張りに耐える構造にしたもの。
これは、神棚を作る際にも用いられています。(動画はこちら→https://youtube.com/shorts/ZBypmAgL9Wk)
参考文献:誠文堂新光社「木組み・継手と組手の技法」
丸晴工務店では、こうした仕口や継手も手刻みで行う、木組みの家を作っています。
現場の様子や手刻みの様子、継手の刻みの様子もYouTubeでご紹介中です。
YouTubeはこちら→https://www.youtube.com/channel/UCrm9-1wp-Or-9W7frbym86Q